2013年9月6日

第17回 父の色紙を受けとる

 今年の8月17日、土曜日の午後1時に、私は京浜東北線の浦和駅を降り、西口から石川栄子さんのお宅に電話した。暑い日だった。歩けば15分ほどの距離とうかがっていた道順は交番できいてわかっていたのだが、「娘が車で駅までむかえに行きます」と、88歳の栄子さんが言う。そして、駅前の公衆電話のそばに立っている私を見つけると、娘のみどりさんはすぐ車から出て私に手を振った。「すぐ小野さんとわかりましたよ」と、あとで彼女は言った。私が彼女に会ったのは疎開さきの埼玉県指扇(さしおうぎ)の石川家でだが、私は5歳で、彼女はやっと1歳だったとのこと。「耕世さんと弟の隆史(たかし)さんは、みどりとよく遊んでくれましたよ」と、栄子さんはおっしゃるが、私には1歳のみどりさんについての記憶が欠けている。1歳の頃に5歳の私に会っただけのみどりさんが、なぜ今の私がわかったのだろう。

 あとで考えてみたら、石川栄子さんとはずっとお会いしていないが、年賀状はさしあげている。毎年、気球に乗っている私のマンガを見て楽しんでいたという。ただそれだけで石川さん母娘と私とはつながっていたのだ。年賀状の下手くそなマンガの私が(なにしろメガネにヒゲの顔を描けば私になるので)、炎天下の浦和駅前で立っていた私の姿に重なって見えたのにちがいない……。



 私が1945年の5月から翌年にかけてすごした疎開さきの家の様子についてこれまでつづってきたが、それには誤りがあることが、石川栄子さんのお宅を訪ねてわかった。例えば栄子さんの夫・正夫さんは兵隊ではなかった。昭和3年、中国の青島(チンタオ)にあった日華興業という製糸工場に勤め、常務になっていた。栄子さんとは、いとこ同士の幼なじみで、結婚するために、正夫さんは1942年秋に一時帰国し、10月に栄子さんと日本で挙式した。新婚で上海に行き(青島から転勤)、1945年1月に青島へ、そして日本の敗戦は北京でむかえたのだった。

 戦局が日本にとって厳しくなってきたので、現地召集(中国にいた日本人が徴兵)されることもあったが、正夫さんは肋骨がカリエス(結核)になっていたので兵役をまぬがれていた。だから、石川夫妻が1946年5月に日本へ帰ってきたとき、軍服は着ていなかった。夫は衣服などを詰めたリュックサックを背負い、妻の栄子さんは娘・みどりさんを抱いていた。そして夫の正夫さんが夜なかに家の大きな門をたたいて「ただいま」と言ったその声を私がきいたことは、前に記した通りである。

 息子夫婦をむかえた母の石川きよさんは、夫の石川雄之助が亡くなったあと、ひとりで石川の本家を守っていたのだが、この本家は二十数代続いた旧家なのだった。私の母方の祖母・松本愛は、石川雄之助の下の妹にあたる。つまり、石川きよさんは、松本愛の義姉ということになる。その縁で、松本愛は彼女の娘である小野寧子と、その息子である私と弟を石川の本家に疎開させることができたのだった…というようなことを、ようやく私は知った。そうしたいきさつを、私は母にきくことをしなかったし、祖母の松本愛が孫の私に話してくれたことがあったとしても、子どもの私は忘れてしまっていたのだろう。

 石川きよさんは、1951年に浦和の栄子さんの家に移り、キリスト教に帰依し、90歳で亡くなったとのこと。栄子さんは、グーグル・アースの地図をパソコンに写し、指扇付近の空中写真を見せてくださった。本家のあった場所は、白っぽい空白になっている。

 「耕世さんたちが疎開された本家の建物は、もうなにも残っていませんよ。ただ、そのとなりにあった石川の分家はいまもあります。本家にあったような(それよりやや小さい)長屋門は、まだ残っています。でも、分家のいまの主人の石川幸利(ゆきとし)は戦後に生まれた人ですから、むかしのことはなにも知りませんよ」

 そう言いながらも栄子さんは、分家の住所を教えてくれた。栄子さんは足を悪くしており、みどりさんは毎週東京の初台にある彼女の弟(つまり栄子さんの息子)が経営している施設に母を乗せて車で通っている。栄子さんは息子の療養所でリハビリを受けているのだった。

 「あなたのお父さまが描いてくださった色紙が、家にあるのですよ」と、栄子さんが言われたのは予想外のことだった。私が来るというので、用意しておいてくださったその色紙には、日本髪の女性の和服のうしろ姿が描かれている。女性の顔は見えないが、小野佐世男の絵であることはひと目でわかる。「昭和21年11月、佐世男」と、すみにサインがあった。

 1946(昭和21)年5月末にインドネシアから復員(兵役を解かれて帰国)した私の父は、妻子が世話になった石川家の人に、この色紙を描いたことになる。色紙といっても、うすい粗末な紙で、手にとると紙が曲がりそうになった。敗戦直後の日本では、この程度の色紙しかなかったことがわかる。

 「この絵を見ると、あなたのお母さまを思い出すのですよ」と栄子さん。顔の見えないうしろ姿なのに、そう感じると言う。そういう印象をきくのは初めてではない。「小野のおじさまが描かれる女性は、おばさまによく似ているわ」と私に言ったいとこの女性もいる。「絵描きの描く女性は、その妻によく似ると言いますけど、やはりそうなのですかね」と私。「そう思いますよ」と栄子さん。

 昨年10月から今年の1月にかけて川崎市岡本太郎美術館で催された「小野佐世男――モガ・オン・パレード」展の招待状は栄子さんにもお送りしてあった。「行きたかったのですが、私がからだをこわしてしまい、母を連れて行けなかったのですよ」と、みどりさんが残念そうに言われる。

 父の色紙をありがたくいただいてきた私は、帰るとすぐ、小野佐世男展の図録を栄子さん母娘にお送りした。



*第18回は9/13(金)更新予定です。


■講演情報■

漫画はどのようにして生まれたか 西洋と日本

[日時]2013年9月20日(金)~10月18日(金) ※毎週金曜 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー
講師:宮本大人、佐々木果、小野耕世
※全5回講座/定員50名/受講料8,000円

↓全5回連続講座の1回に小野耕世さんが登壇されます。

「アメリカ初期新聞漫画の世界」 講師:小野耕世

[日時]10月4日(金) 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー


●東京女子大学比較文化研究所主催公開講演会
『海外マンガの中の日本女性 「ヨーコ・ツノ」の場合』

[日時]2013年10月28日(月) 10:55~12:25 ※開場10:40
[場所]東京女子大学 24301教室
※申込不要/無料/定員150名