2014年12月26日

第80回 舞台でピストルをくるくる回す

 私の入学当時、国際基督教大学の学生の三分の一は女性だった。

 女性は服装も華やかだから、三分の一でも学生の半分以上が女性のような印象を与える。私が入学した1959年は、日本で最初の少年向け週刊誌『少年サンデー』と『少年マガジン』が創刊された年として記憶されていよう。

 私は三鷹駅から大学行きのバスに乗るとき、駅の売店で『サンデー』を買うのを習慣としていた(『マガジン』ではなく『サンデー』なのは、『サンデー』には手塚治虫の連載マンガがあったからだ)。

 ある朝、『サンデー』を手にバスに乗ると、隣に英語のクラスで一緒の一年生の女性が座った。私が『サンデー』をひざに乗せていると、彼女はそっと手を伸ばし、雑誌を裏返しにした。つまり、私が子ども向きのマンガ週刊誌を読んでいることを、恥ずかしく思ったのである(大学生がマンガを読む――ということがマスコミの話題になるのは、何年も後のことだ。このとき雑誌を裏返しにした女性は、やはりこの大学の同期で、後にNHKのワシントン支局長などを務めることになる平野次郎と結婚した)。



 大学時代、女性たちにはずいぶんお世話になった。しばしばノートを借りたのである。

 女子寮に住んでいる上級生にノートを借りたこともある。彼女が女子寮の玄関までパジャマ姿で出てきたのには、私のほうがびっくりしたが、そんなおおらかな女性がいるのが、この大学のいいところだったのではないか。

 昨年、同期の卒業50周年の同窓会に顔を出したら、「小野さんたら、私からノートを借りて試験を受けたら、成績が私より上だったのよ。悔しいったらありゃしないわ」と、大学で一期下の翻訳家と結婚している女性になじられてしまった。

 「でも小野さんは、社会学のテストで最低点のDだったこともあるわ。人種差別についての問題が出たとき、『しかし、もし宇宙人が地球にやって来たとしたら、人種問題は意味をなすのだろうか』と書いて、先生を怒らしちゃったのよね」と彼女は言う。私は覚えていない。女性はエピソーディック・メモリー(具体的な出来事などの記憶)が、男性よりずっと優れているというが、本当にそのとおりだと思う。



 このように記していくと、いかにも私の大学時代は楽しそうだと思われるかもしれないが、とんでもない。大学でも体力テストはあるし、体育の時間は地獄だった(それでも大学一年の冬、スキー合宿に参加したのは楽しかった)。

 人前に出るのが嫌いで、恥ずかしがりなところは変わらなくて、英語でスピーチをする授業が嫌でたまらなかった。アメリカの学校でよくなされているような、なにかを持ってきて、それについてちょっとしたお話をする授業があったのだが、アメリカの西部劇映画が1960年代には人気があり、私はガンマンの芸をしてやろうと考えた。弟がプラスチック製のオモチャのピストルを買ってきて、革でガンベルトを作り、革のケースに拳銃を入れて遊んでいるのを見たからだ。私もプラスチックの拳銃を買ってきて、弟に借りたガンベルトを腰につけ、その革のケースに銃を指でくるくる回しながら収める――という練習をした。おかげで右手の人さし指の皮がむけて痛かったが、当時人気のあった西部劇『ヴェラクルス』のなかで、バート・ランカスターが最後の決闘で、それを見事にやっていたのである。

 大学のクラスで私はそれをやって見せた。するとスピーチ担当の女性の先生は、「それを大学の講堂で行うスピーチ・ショーでやってみたら」と言う。何人かの選抜者とともに、講堂に出場することになった。私は、くるくると銃を回しながら、ちゃんと腰のケースに収めてみせた。そのことはいまでも同窓会で「あのピストルさばきは見事だったな」と、語り草になっている。

 しかし実情は、私が恥ずかしがり屋だと見抜いていた先生が、私をはげますつもりで大講堂のショーに出したのだと、あとで知った。



 まあ、それは良かったのだが、なにより困ったのは、国際基督教大学では、しょっちゅうダンス・パーティーがあるのである。一年生のとき、新入生にはダンスの講習があったのに、恥ずかしくて参加しなかったし、学園祭のときも含め、大学時代に一度もダンスをしなかった(教会の礼拝にも出たことはない)。

 「この大学でダンスが出来ないのは死を意味するぞ」と、私に言っていた小山修三は、ダンスでジルバの曲が始まると、逆立ちまでして踊ってみせるので、私はただ彼を尊敬するばかりだった――そんな私が、1990年代末に、ふとしたことからダンスを学び、正式な舞踏会に毎年正装して参加するようになったのだからおかしなものだ。音楽に合わせて踊ることの楽しさを、いまでは私は知っている……。



 洋書の丸善がかつて発行していた雑誌『學鐙』で、ウィリアム・ゴールディングというイギリスの作家についての短い紹介文を私が読んだのは1960年のことだった。まだ日本で一冊も翻訳が出ていなかった(後にノーベル文学賞をとる)この作家を、卒業論文に取り上げようと思ったのは、これがきっかけであった……。   <未完>





*「毎日なにかを思いだす~小野耕世の次元ドリフト~」は
 今回をもっていったんお休みとなります。ご愛読ありがとうございました!